先日、友達の誕生日だった。
そのときふと、毎年こういう場面に出くわすと、
「誕生日って、なんか苦手なんだよな」と感じる自分がいる。
別に嫌いなわけじゃない。
でも、なんかしっくりこない。
誕生日って、そもそもなに?
誕生日って一体なんなのか、ちょっと考えてみた。
- 誕生日=その人が生まれた年月日
これはもちろん、わかる。 - 私の誕生日を祝ってもらう
ありがたいし、嬉しくもあるけど、少し居心地が悪い。
毎年声をかけてくれる人もいて、感謝の気持ちはあるけど、なんで「祝う」のか…。
ある意味、また死へ1歩近づいた日でもあると、なんとなく思ってしまう笑。
「みんなの誕生日は祝うものだよね!」と言った暗黙のルールを押し付けられている感。 - 誰かの誕生日を祝う
これがたぶん、一番ピンとこない。
誕生日ってその人の価値や私との関係性とは関係ない“記号”だと思ってるから。
誕生日は、単なる記号。そしてプレッシャーと評価・・・
たとえば、
好きな人が4月1日生まれでも4月2日生まれでも、私の好き度合いに違いはない。
その日付そのものに“意味”はないはずなのに、
毎年それを祝うことが、ちょっと不思議に感じてしまう。
極端な例を挙げるなら、
たまたま私が生まれた日に、医者が水色のハンカチを持っていたとして、
「あなたのラッキーカラーは水色です」と決められて、
水色を見かけたらお辞儀して、周りは拍手する……みたいな風習がある感じ。
そんなふうに、記号に意味を強く持たせて繰り返すことに違和感を感じていたのかもしれない。
それに加えて、
- プレゼントやケーキの準備に労力がかかる
- 渡したものは評価され、気に入られないのではないかといった不安感
- そもそも「誕生日を忘れることは許されない」みたいな空気感
……みたいな“誕生日文化”のプレッシャーが苦手だったんだと思う。
私は、
この、労力や評価の伴う「暗黙の強制」から逃れたくて、
「誕生日って意味ある?」という論を立ち上げていたように思う。
友人との会話と、自分の本音
そういえば昔、
この誕生日モヤモヤを友人に話したことがある。
そのとき、友人に言われたことが印象に残ってる。
「何言ってんの(笑)
誕生日は、本人にとっては“無事生きてこられたこと”を感謝する日。
周りにとっては“その人が生まれてくれてよかった”っていう気持ちを表す日じゃない?
誰を祝うかは自由だけど、自分が感謝することは忘れない方がいいと思うよ。」
そのとき、ふむふむなるほどね…くらいに思っていたけど、
今、改めて、すごくいいこと言われてた気もする。
誕生日って、たしかに「科学的には意味がある日じゃない」。
親や病院の都合でずれることもあるし、単なる“出生届上の記号”だ。
※年末年始や3/31,4/1は明らかに出生率が低い、といった話を聞いたことある。
でも、その記号があるからこそ、
少なくとも年に一度、大切な人を想い、その想いを行動に移す機会になっているのも確か。
だから結局は、
- 相手を祝いたいかどうか
- どれだけ気持ちを込めたいか
- それを無理せず自然にできるか
そういうことを、自分の心と相談して決めたらいいんだと思う。
無理に乗らなくてもいい。
でも、乗れるなら乗ってもいい。
私は、「誕生日って苦手」と言ってきたけど、
たぶん「誕生日がわからない」んじゃなくて、
誕生日に伴う労力とか、暗黙の強制感、そして評価への不安――
そういうのが嫌だったんだと思う。
でもそれを素直に表現するのは難しくて、
「誕生日ってただの記号」とか「意味ある?」みたいに、
少し斜に構えてごまかしていたんだな、と思った。笑
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あとがき
結局、友達にはケーキを買って会いにいきました。
たぶん、まあまあ喜んでもらえた気がします。
実は昔、交際していた人の誕生日を完全にすっぽかしてしまって、
それはもう大変な目にあった経験があります……。
たぶんその影響もあって、
誕生日にまつわる一連の“慣習?”に、どこかトラウマ感があって、
今回もなんとか一石を投じたかったのかもしれません。笑
でも今回、
「自分が祝いたいから祝う」
という自然な気持ちで動けたことと、
その事を振り返った時に、なんだかとても納得でき、ちょっと自分にホッとしました。
これからは、
多少前向きに、誕生日を捉えられる気がします!
……まあ、記号(誕生日)を覚えるのは、今でもとても苦手なんですが・・・笑
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ここまで読んでくださって、ありがとうございました!
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